生きているときの目標。

好きなように生きて、
自分のやりたいことだけをやって生きる。

それが一番いい。

誰だってそうだ。

だけど、そうできない理由があるとしたらなんだ。

それは、きっと誰かが決めたことをやっているということだと思う。

僕はただ選択していくしかないのだと。

自分がまだ本当にやりたいことをやれてないから、うまくやれなくて戸惑っているのかもしれない。

結局のところ、誰と何をするかなのだ、仕事は。
それで楽しいかどうか、これからもやりたいか、やっていくか決まる。

だからそれが違うのなら、どうしたって楽しいものではなくなってしまう。

それが簡単に自分のしたいことと合致していけばよいが、どうにも世の中と折り合いが付かないでいるのなら。

何か次の一手までの武器を持ち合わせていないのではないか。

誰かの伸ばした手を、振り払ってはいないか。

その手が、自分の長い目での本当の救いになるかは、見極めなければならないけれど。

もしも何か合致しない、自分のスタイルとの誤差、修正の難しいレベルの誤差。は、もう基本的にそれよりよく戻ることは難しいだろう。
それはもうことわりのようなものだ。
嘆くことでも、憂うことでもない。
その事象自体は、残念なものであるが。
そもそも発生させないのが吉ではあるが。

だから、巡り合わせの中で、感覚の一致する相手、もしくは大切にしたい相手。
ともすれば、関係が進むにつれて、さらに自然に発展していくであろうこと。
それをきっと楽しく、過ごしていくことが楽しいんだろう。
そして、また次の出逢いがあって、さらなる世界があるかもしれない。

世の中はたくさん移り変わっていってて、誰かと急遽簡単に会えるわけではなくなるかもしれないし、実はこんな事があったのだと何かしら差し出されることもあったりするかもしれない。
すごく移り変わってるから、それはそれまでの関係だったり、そもそもの相性だったり、もしくは固い契約(会社員とか結婚とか)で結ばれているかに左右されるかもしれない。

言っても結婚だからとまた様々なことはあるかもしれない。

結局は、どこまでの信頼をお互いに寄せているのか、探していたいのかによるところもある。

それでも良好な関係を気付いて、どこまでも伸びていきたいそんな関係。

気になっていてもあまり声をかけてないような事があれば、そもそも始まってもいないということになる。

だから声をかける機会や、逆に声をかけてもらえるような機会が必要だ。

人との繋がりが、次の世界、知らない世界を作っていく。
それは今深く繋がっている人ともそうだし、
これから出逢う人とも起こりうることだろう。
ひいては昔の名著などから思想を受けることもあるだろう。
どこまでもたくさんの思考に触れる事ができる。

今生きてることは、認識できる範囲では最新であることに違いない。

今その感じることを発信することには、
きっと、大きな意味があるだろう。

それが誰かに伝わって影響して、
伝わっていけばいい。

それは慣習に倣った世界では難しいことだ。

だから発信しよう。

まっすぐに、ただまっすぐに。
裏の顔なども不要で、ただまっすぐに。

それこそ自由で、個人の表現であり、
これからの生き方の価値観そのものではないか。