僕はといえば、雑記で書くのでよければ、マジで起きた瞬間から寝る瞬間まで文字を打っていられる。

昔から、というわけではないが、仕事をするにしても何にしても、まず自分で書き出して、順序を決めて取り掛かるなど、
まずどんなアクションをするにしても、文章化することを前提にしていたら整理がついたからだ。

それが何とも、永遠に文章が止まらなくなってしまった。

このブログには、直でいろんなコメントをもらうけど、どれも好意的なものだ。

あぁ、何をどうしたら酷評できるっていうんだ、我ながら良いことを書いている。←

そんな冗談は良いとして、何が書くのに強いかといえば、特に何を書こうとか決めているわけでもなく、書けるということだ。

そう、そういうことを文章に組み込んでる時点で、私は今何を書こうか考えながら書いてるわけだ。

ライフスタイルで変わる行動スタイル

ライフスタイルとはすごいもので、行動のスタイルまで一様に定義するほどの効果がある。

固定で必ず決まった時間制約があるなら、そうでない時間を充実させようとするし、そうでない時間だけだと自分で楽しめるように時間を組み立てるし、もしくは何となく日々を過ごすようになったりする。

固定化した習慣を復活させると、見事にそれに付随してその他の習慣が復活する。
一つの習慣が、他の習慣を引っ張ってくるのだ。

それだけ、普段の一つの習慣が様々な習慣と密接な関係を持っているかがよくわかる。

僕だって今はこうしてブログを書いてるわけだが、ライブに行くのが好きな人なら夏フェスのタイムテーブルが出れば見て回る順番を決めるし、遠征計画を立てる時間にあてるだろう。

あらかじめ飲みの約束を入れて、お酒を飲んでぼちぼち帰ろうかなって人もいれば、
そのあと部屋でお楽しみって人もいるだろう。

もしくは僕と同じくラウンジに来て外でパソコンのキーボードパチパチしてる人だっている。

夜景を見ている人もいるだろうし、漫画読んでる人もいるだろうし。

しこたま閲覧数を増やすための(悪い意味じゃない)記事を量産して作る人もいるだろう。

僕といえば、今、一つの目標がパーンと弾けて、最低限の目先の計画は立てたけど、先の方の計画まで立てる動機もなく、
なんかこれはこの状態で落ち着いているので、それで良いね、ってことになっている。

よく僕はふわっとしてるとも言われるのだが、僕はある意味僕を他人として見てるといえば良いのだろうか。

僕がこう行動したら僕はこう感じるんだ、こうするんだ、って僕が僕を操って、僕がどう感じるかを評価して、
次はこうしてみよう、ってやってるのだ。

だから、こういうのを作りました!って自分が主語だから自分目線でいうってところを、
こういうのができました!と、何か見ていたら出来上がったような表現をする。

僕の感覚としてそれが自然なのだ。
確かに僕のこの記事も作ってることには変わりないが、作ってるという感覚は微塵もない。

1呼吸ごとに「呼吸しました!!」なんて言わない。
呼吸してるだけだし、こういう記事ができてるだけなのだ。

私がやってることは自然の摂理そのものなのだ。(それっぽい)

僕としては、「ちょっとお腹の調子が悪いので腸の動きを活発にしますね」とヤクルトを飲むわけでもなく自らの意志でやろうという超人的なことでもしでかすのではないかと思うくらいのことなのだ。

頼むから主語を自分にしたがりの人は1時間息を止めてくれ。
そしたら1時間話聞くから。我慢して聞くから。
(総じて自分のやり方を相手の希望しない形でやってもらおうとする人なので困る)

別にオピニオン(意見)を書こうとしたわけじゃない

わけじゃないのだけど、何かしら途中でそっち方向に行った。
さっき松屋で飲んだ生ビールの影響か。
150円なんてお得だぞ。

田舎ものは調和を優先するんだ

田舎出身と生まれも育ちも都会に近いもしくは都会の人との決定的な違いを最近感じる。

田舎だと村社会だから、一人ひとりとの関係が濃い。し、誰かとの関係のほつれはそれに付随して他の関係のほつれにも影響が出るレベルだ。

ライブハウスだって数えるほどしかない。
誰かとこじれたら活動自体に影響するレベルなのだ。

東京?ダメなら次だ。
別の場所を活動拠点にできる。
電車で少し移動すれば別の県と言えるくらいのレベルで栄えているしなんでもある。
それに顔見知りとすれ違うなんて、まず起こりえない。
生活圏が近くても起こりえない。

まぁそれは田舎も同じだが、田舎はまだ、会うかもしれないなって思う。
都会だと、いや、あわねぇだろしかない。
ただでさえ人が多い。
仮に偶然すれ違っても気づかない。ってレベルだ。

店の対応は、すぐに過ぎ去ること風のごとし。
田舎のコンビニ行ってみろ、昔から知り合いだったかのような対応の場合もある。
近所付き合いかよ。

こちらか?バカにするわけじゃないが、外国人がやってくれることも多いぞ。
背負ってるものが違いすぎるのか、丁寧な人が多いけど。
日本の稼ぎなんてそりゃあ大きいだろうから。生活費もかかるだろうけど、還元できることも大きいのではないか。

話を戻して、よくも悪くも、一時的な関係も非常に多い。
つながりが多い分、他のつながりに行ったりと、流動的だ。非常に。

自由がきくが、個人が大切にされる、というわけではないなと思う。

情というのだろうか?

元から都会寄りで生きてる人はお互いが理解できないであろうし、そこをどうこうするって話でもないだろうが。

しかし、田舎ものの戦略と都会的な戦略ってまったく異なるものだ、ってよく感じるのである。

自己の利益を最大化するというか、代えが他にいるというか。それが都会的な思想と一括りするのも乱暴かもしれないが、
事実、他っているわけだ。
人の数も種類も様々常に揃っているといっていい。

東京で消耗してる、っていうより、東京で擦れてきてる。って表現した方が適切だろう。

とても擦れてきてる。

そこにこだわらなくても、こうしたらいいよね?ってことを。

リミッターが外れているとも言える。

大切な、人としての何かがなくなった、という感覚があるわけではない。

だが正直、誰か一人を実直に見る、なんてことがバカバカしくなる危険をはらんでるかもしれない。

よくも悪くも、人が多い。誰かいる、なんて感覚にもなれば、もうそれは。

って、本来は個人はオリジナリティの塊で同じ人生なんて細かくみれば歩んでないわけだけど、
それを有耶無耶にしかねないくらいの魔力は、人口過多な街にはある。

蓋を開けてしまえば、虚像だらけにも見えてしまう世界だ。

みんな中身を引き出せば、理解の範疇を超えることはない。

理解の範疇を超えるなら、その人は何かを偽っている

僕みたいに馬鹿正直に生きても軋轢ができたり損したりするのでおすすめしないし少しは頭使ってこうと思うところだが、
割とみんな利己的に生きてんだな、って思うところですよ。

もっと個人が個人、自分が自分として生きれるように、自己を追求していけば、手のひらに散らばった問題なんて、
眺めるくらいのものになりますし、消失もすると思います。

もともと自分が満足さえすれば、それだけで素晴らしい人生だと、思えるはずなのですから。

なんて綺麗な終わりを狙ってるわけではないのだけど、
最終的には自分が抱いた満足以上のものがあるなら、誰かの施ししかないかなぁ。

うーん、僕にはわからないや。たくさん読んだ本からそれらしい答えは持ち合わせているけれど。

続く日常と、いずれ続かない日が来る以上のこと。

人生のアップデート自体が、暇つぶしなんだろうか。

って、ここは気負ってるわけじゃなくて、ただ考えるのが趣味なので、ただ考えるだけで。

下手に本読んだりなんたりで知識つけなければこういったことに思考がいかなかったのかなと、
いい面悪い面を感じてます。

哲学は、人生を深く味わうノウハウが詰まっているけど、人生自体を深く考え始めるので、危ないパンドラの箱とも言える。

だから、「ハッハー楽しかったなー!!うわー!!」くらいで死んだ方が楽しい人生な感じあるよな。

「これは我の満足な死也。」とか言われるとどう受け取っていいのかしら。

んまぁくだらないこと考えるのは面白いですよなぁ。

半人前なりの生き方は「普通」万歳

なんかこうして半人前のように生きるのも退屈なもので。
こうして雑記ブログとして書くようなら、商品紹介よりも自分の価値提供に重きをおいた方がいいのでは?と思うことも。

教えるのは好きだし祖父は学校の先生ですし、教えることには自信があります。なのでこれからギターを始める人には、
1回1時間3000円でみっちり教えますよ。ええ。

このような形でサービス展開した方が、本意のままで生きれるかな。

んまあわざわざ自ら制限することでもないか。

なにをやるもやらないも。

しかしブログやそれらのサービスで展開して生きてる人ってすごーいって思いますよ。

なんだか僕なんて中途半端な感じもしますよ。

まぁ、楽しくうまくやって生きてますけど。

今思うことは、学生の時くらいのノリでのんびりゆったり楽しく生きたいですねー。

そのあたりはなんというか、普通でいいんです。

まぁ普通に生きてみます。

だって、普通に生きること、がその人にとっての一番ノーマルなことな訳ですよ。

「成功」とか「名誉」とか、もういいですよ。

「普通」で。

「普通」に生きて、はたから「成功」って見えるかもしれないしなんでもいいですけど、僕は、「普通」に生きます。

「普通」万歳です。