いかなる状況であっても、人は慣れる。
よくもあり、退屈にも感じることだ。

常に変化と挑戦の中にしか、新しさはない。
しかし、淡々とした日常に楽しさを見出せるだろうか。

僕は否だと思うし、そういう日々に内包している不満がある方が大きい。

自分の望む環境に身をおいた上で人と話して感じることは、「そんな理由をあてがってたらそれは窮屈になるだろう」と思うこと。

アドラー心理学的には、やろうとすることに対しての言い訳は全て「人生の嘘」であると断じる。
表現としては、「さまざまな口実を設けて人生の課題から逃れようとすること」と定義しています。

「嫌われる勇気」に出会って3年ほどが経ち、今でも読み返すし、「幸せになる勇気」も今後の人生において読み返すことが多くなるあろう。
1度読んでいるので、今後人生で訪れる様々なことに対して、こんな状態になったら再度読みたいな、と思う本の部分がいくつかある。
迷った時の指針として働いてくれるのも一つ読書という知見の素晴らしさだと思う。

「嫌われる勇気」を最初読んだらよく理解できなかった

書いてある内容によって革新的に何かが変わる、という予感や感覚があったものの、それを理解するための解釈を持ち得ていなかった。
自分の課題の達成のために嫌われるのもいとわないでいろ、ということだが、今となれば自分の裁量次第でもっと全体の幸福度もあげることができたのではないか、とも思う。

具体的な話をしよう。

僕はよくそそくさと仕事は定時で帰っていた。
それは先々の目線で考えて読書で知識を蓄える方が人生として良い方向にいくと思ったし、家に帰って音楽をする時間を取りたかった。

(そうはいっても音楽がしたい意識もあったが帰って音楽をすることはあまりなかった。ちょこちょこやるくらいだった。正直なところ、酷だが仕事しながらきっちり音楽をするのは相当厳しいと思う。また、音楽だけをして生活をするなら、当たり前だが音楽が収入源でなくてはならない。他のお金を稼ぐ手段は残念ながら遠回りだ。音楽の本質的にも。元もと弾き語りを聞いてビール代をおごってもらうことがあるが、究極的にはこれの応用で映画とコラボレーションしたりと話が広がっていくようなことでしかないと思う。し、それを受けるようなフットワークの軽さを自分が持ち合わせているか、だと思う。)

結果的には、会社の人からは「なぜ残業をしないのか?」と叱責されることがあった。「音楽がしたいからです。本読みたいからです」
そんなこと言えるわけがない。その後に続く言葉なんてわかりきってるし、それを迷惑に思うに違いないからだ。

仕事は仕事として純粋にこなす、といった手段を取るべきでもあったかもしれないと思う。
仕事を始めた当初は特にその軋轢でうまく回らないことがあった。のちにはきっちり回っていたとは思うが、いい人間関係でやっていたとは思えない。
(ここらあたりはもっと時が過ぎればももっといい解釈として過去を振り返ることができるとは思っている。)

つまり自分のやりたいことに対して嫌われるようなことがあっても仕方のないことだ、とも思うし、もともと就職が決まらず、親の話を聞いては生きてきた人生だった。大学院まで出て地元大手の会社で大手専属で誰でも聞いたら知ってる会社で働いている僕を誇らしくあっただろう。
音楽をやりたい気持ちは話していたが、よくある話で稼ぎや先々のことを問われて終わるばかりだった。

自分もそこに関して疑っていたわけではなかったが、どうしたって頭をもたげた。
正月の休み明けに職場の空間に入った瞬間、ズドンと思い感覚があった。「こんな環境で働いていたのか?」と我に返る瞬間だった。
正月でみなリフレッシュして3日間くらいは明るい空気なのだが、それがすぎるとまた重い。

5つの職場で働いたので環境ごとの傾向はかなりわかってる方だと思うが、自分を押し殺してなんとか作業をするようなことが多かった。
明らかにもめてストレスになってるのにも関わらず、囚われたまま離れられない。
本当に望んでいる道なのか不明だが、ほとほとそうは見えない。

また、結果的に嫌われる勇気を持ってよかったかと思えば、あのまま辛い状況を当たり前のこととして受け入れたのかと思うと、
頭がフラッとして吐き気が出る。比喩ではなくそう思うとそういう体感がある。

嫌われる勇気の強み

嫌われる勇気の強みは、何と言っても「自ら主導権を握ることができる」ということ。
それは相手を操作するということではなく、自己でどこまでを責任範疇として捉えて行動し、自分の中の課題をして処理するか、の判断が必要になる。
し、それはすべて身から出ているものであり、どう対応していくかを考えるのが自分の成すことであるということだ。
それを誰々がどうしたからどうだ、と責めることがあるなら、その時点で課題から逸脱することになる。
少なくとも、双方にとってメリットがあるのだ、という場合にその良いと思う考え、案を出すにすぎないのではないだろうか。

また、自分が音楽だけでやっていく、といった時には、当然というか?親からは応援と反対の入り混じったような話だった。
応援はしてくれてるけど、不安と闘ってるようだった。まぁ、僕ももちろん不安でなんてとこに来てるんだとたまに思うのだが、
目指している方向に行っている実感もあるので、正直一個一個浄化されてるというか、不安も消えていってます。
それに、単純に慣れます。

しかし、アドラー心理学の革命的な解釈は明らかに僕の目指したいところへ足元を照らしてくれているし、
袋小路にはまるようなところから脱して自らの環境を最高にしていく手段を持ち合わせた科学的見地であると思う。

受け手でなくやり手

やる側がいるから受ける側がいるように、やる側であることが一つ大きな強みとして働くし、やることに意味がある。
曲を作ったり、法律を作ったり、何かを作るのは、それだけ挑戦も伴うが、人生としての喜びも大きいし、やり手の方がそのまま
自分を受け入れてもらいやすい。
それは単純に受け手だと何が好きかはわかるが、何がやりたいかはわからないからだ。
だから音楽を演奏するだけで、まるで昔から自分のことを知ってくれてるような、そんな仲の良さや絡みができるのは、何を好きで何を大切にしていて、
どんなことを考えて生きているのかが伝わってくるからだと思う。

それは何かを営業すること、でもいいのだと思うが、全般の仕事を知っているか、で思考は変わってくる。
音楽をマジでやるのなら、CDやグッズを作るのは商品開発だし、販売もするし、ものを売るという意味ではライブは提案でありプレゼンテーションかもしれない。
実は自分でやるにはかなりの総合力を試される。
また、それだからこそ面白いんですけどね。「こんな考え方じゃあまず人は動いてくれないわ」、って後から思うこともあるし、
「こういうことをするから人は動いてくれるんだ」って思うこともあります。

正直、心からやりたいと思っていない仕事であれば、そこを直さなくても給料は入ってくるし、あまり力点を置くにも至らない。
今身の回りに必要な知識や環境が揃ったからこそ、やってみたいことでもあるしやれることでもある、と思うのが、今自分のしている活動だと思う。

仮にもっとズバツと早いタイミングでやれたかというと、4年前の自分にはおそらくかなり厳しいと思う。
身の回りにどんな人がいるか、どんな環境にいるか、自分に今持ち得ているものは何か?から判断していくものであると思う。
し、飛び出してみて背水の陣の状況であれば、きっちりやれる部分もあるし実感できることもある、と思う。
これに関しては、自分が一番わかってると思う。
その時に必要な問いが自分に生まれると思うから。

だから、そんなタイミングやどのような活動をするかは、常に考えるべきだと思う。