そう、大好きで周りが見えなくなるというより、
その人しか見えなくて、すべてその人のことが正しくて、後のことを否定してしまいそうな、あの気持ち。

逆の立ち位置になったら、そんな牢獄にいる状態、出してあげた方が良いのではないかという気もしますが、
もし迷惑をかけられていたらそうともいけない。

さて、盲信といえばどういう状態でしょうか。それは相手の言うことはすべて正しくて、否定することはすべてはねのけてしまうようなことです。

恐ろしいことに、本心ではどうかなって思っているようなことでさえ、その人だと言うだけですべてを肯定してしまうのです。
つまり、自らに嘘をつくことになり、その人が正しけれ絵羽、自らが嘘となることを厭わないのです。

なぜ盲信するのか

そもそもなぜ盲信するのか?
超好きでファンですって言うのも、これに分類されます。
つまり自らがとてもその対象を好きで、まずもって負けない、そのためならあらゆる優位性も表示するような状態です。

これって他の人から見てそうなのかってことがはんだん基準になるのですが、ことさらにアピールするのは、自分が一番じゃなかった時の不安を表しています。
そこに変化があれば、まず崩壊し、被害者としての表情を出します。

今まで信じて嘘で塗り固めた自分から取り返しがつかないからです。

信じるって、楽なんですよね。
不安と向き合わなくて済むから。

だから全面的に信じれいれば、その中に安住していられるのです。

そしてどこにも行けなくなる。

何かを盲信するって、とても怖いことなのです。

盲信することの恐怖

盲信しだすということは、それ以外を否定することと同じ意味を持っています。

そして、自分の見方を変えるだけで簡単に信じる、信じないって変わることなんですよね。

だから信じるってそもそも嘘なんです。

その時の状態を表現しているに過ぎないんですね。

では何が怖いかって、「自分を見失う」んですよ。

自分ではない何かを、自分の意思を否定して肯定するわけです。

それって、その人がすればいいんですし、してることなのです。それをただ肯定してるだけの側の人は、
「意味」がなくなってしまうんですね。

対象を消化して、自分色で表現していくのなら最高ですが、本来否定してるようなことまで肯定しだすと、
その人に自分を委ね、ある意味奪われてしまっている状態になります。
心が奪われている状態。

これって取り返せることではないので、まずもって冷静になる必要があります。

つまり、「違う」と自覚すること。

その人はその人の良いと思っていることをしているだけだし、自分も同じように、良いと思うことをやる。

盲信からの解放

自分にとって、いいと思うことをやる。
それぞれが良いと思うことをやっているだけだし、やれば良いのです。

心の中のノーをイエスというから、ノーをすることになる。

その誤差はあまりに大きいのです。

何かに目を奪われたり心を奪われた時点で、戒めなければならないのです。

何が良いと思って、何が良くないと思うのか。

完全などはない。

そこには不確かさがあって、確かなことといえば、自分がイエスと思うことをする。

そこをひらすら進む。それ以外は邪魔です。

嘘に時間を使ってる時間はありません。

自分の「YES」を生きることです。