わたしは宮崎に生を受けました。

残念ながらこの時のことは覚えていません。

幼稚園から今までを追っていこう。

ぱっくんちょと妹、幼稚園

物心がついたのは幼稚園から。

折り紙で作るパックンチョの4面に番号を振って開いたらその内容がわかるってゲームが流行っていました。
シャイな僕は、パックンチョの作り方を教えてもらうまで少々時間を要したのを覚えています。
今もそういうとこは変わっていません。

折り紙とあやとりが得意で、よく遊んでいました。

今やググればいろんな技を知れるってすごい。

友人に聞くか、図書室の本を読むかでした。

そしてふと親から「妹ができるからお兄ちゃんになるぞ!」とよく言われていたのを覚えています。

僕は、よし、お兄ちゃんになるぞ!!と何か不思議な使命感を覚えていました。

今でもミュージシャンとデザイナーというクリエイティブな面の会話からゲームの趣味までカバーしており、親戚の集まりでは「仲がいいねぇ」と言われる。

ちなみに幼稚園は長崎だ。坂がたくさんあったのを覚えている。長崎県諫早市の小栗幼稚園で過ごしていた。

福岡への転勤、小学校

福岡の片江小学校へ入学した。

九州内限定の転勤族のため、転勤があったのだ。

この時、2年生の時に一人の親友と出会い、一緒にゲームをしたり、遊んだりをずーっと続ける。

よくいじられることが多かったが、振り返ってみればその人の家に遊びに行ったこともあったし、
大人になってよく言う、私はいじめられていましたは、そうでもないかもしれない。

周りも周りだが、引き受けていた僕も僕である。

心優しい親友は、その時にさっとかばって守ってくれる、めっちゃかっこいい友人だったのだ。

今は研究者として活躍している。

宮崎へ転勤、中学校

僕は節目ごとに転勤をしている。

大人になってもいろんな土地に行くのに抵抗がないのは、ここから来ているかもしれない。

部活はサボりがちで、悪ガキになっていた。

中3の夏休み前の面談で、順位的に僕がぼやっと目指していた、
親はだらしがないなーと思っていたので、そこに遠く及ばないと知って、愕然とした。
その進学校より一つ下の高校に、通るのは難しいということだった。

広末広末

いや、ないわ・・・

通っていた個別指導の明光義塾にボスボス自習時間を入れた。さながらボロボロのサンドバックにするがごとく詰め込んだ。
10時くらいから22時くらいまで。夏休みを勉強に捧げた。

たまに根をあげて18時に帰宅したり、消しゴムこねて遊んでいる時間もあったが、授業前の自習タイムなら宿題をしたり、
課題を解いたり、学校の宿題をしたり、その他教科書や参考書で勉強していた。

今振り返るとマジでやばい
ここ辺りで完全にこだわり派であることがわかる。

それから160人中120くらいから、40にあがった。自分の成績表ではないと疑い、先生に声をかけようと思ったが、
3年になってからの成績をずっとつけてるものだったから、確かに自分のだ。現実として受け止めきれなかった。

そして進学校には合格した。同じ塾に通っていた友人はダメだった。

僕も恐らくギリギリだっただろう。

また、あまり意思疎通をする方ではなかったようだった。

今ではすっかり、毅然とするようになって、成人式であった高校の知り合いからは、別人扱いを受けるのであった。

久々の同窓会は、まるで別人の中の人に入ったくらい冷たい扱いを受けたように感じた。

思えば、僕があまり喋らなかったからかもしれない。

喋るのはコミュニケーションだし、喋らないことまで責任を取ることが、真のコミュニケーションなのだ。

ってキング牧師が言ってた。

You are not only responsible for what you say, but also for what you do not say.
人は「発言する」ことにのみならず、「発言しない」ということにも責任を持たなければならない。

進学校、高校

何を隠そう、堺雅人と同じ高校なのだ。
それで僕がどうというわけではないのだが、半沢直樹が流行った時には、やけにアピールしたくなったものだ。

県外の早稲田大学とか行きたいなーとかぼんやり思っていて、誰かは見学に行くらしいとか、話を聞いていた。
しかし暗に県外に出て経済的な負担をかけるのははばかれる気持ちになっていたし、奨学金など、借金は毛頭、頭になかった。

半年前の受験になって、なんで僕ら今死ぬ気で勉強したらもっといいところに行けるのに、しないんだろうねって話してた。

今思えば、その意味が当時見出せなかったからだろうと思う。

高校最後辺りは僕は収集癖があって、その当時の参考書でどう言ったものがあるかはよく知っていた。
友人からどの参考書がいいか聞かれる係だ。

僕は強み診断のトップに「収集」が来る。とにかく情報を集めるのが好きなのだ。

そんな中センター試験を受験し、ギリッギリのラインだった。わりと無謀さもあった。

地元の国立大学、宮崎大学を受験予定だったが、九州大学くらいは行きたい、と思っていたため、このまま不合格になれば、北九州予備校に行ってみっちり勉強させてもらう機会がもらえるのではないかと画策した。
私立は受かっても行かないだろうし、ちょうどいいところもないので一つも受けなかった。

北九州予備校は携帯も持ち込めない、半ば牢獄みたいな噂が立ち込めていた。
僕はそこに行きたかった。
今後一生ついて回る学歴だ、妥協ができるわけがないと。

赤本は全問解いてマスターして、あとは授業はそれなりに聞きつつ、なぜかヌリケシを作って数学が得意な友達と遊んでいた。

授業の後は毎日ゲーセンに行ってドラムマニアしてた。

そして試験当日。

いつもの定番の傾向と違う切り口で問題が出題された。

とにかくびっしり埋めた。
おそらく余程の人じゃないと知らないような公式も使って、半ばアピールするかのごとく答案を埋めていった。

「うーん、とりあえずひたすらに埋めて解いた。アピールはできたと思う。」

と思い、席をあとにした。

そして留年する画策は未遂に終わり合格する。

一緒にヌリケシで遊んでた友人も合格する。

わたし、消しゴムで遊び過ぎである。

大学時代

大学時代からは、音楽に没頭した。

こちらで紹介している。
大学、就職からフリーランスになるまでの道のりと音楽

わたしは今、音楽をしながら仕事をしつつ、学生より自由な世界に飛び込もうとしているのだ。
自分のやりたい音楽だけに没頭できる世界に。